関東三十六不動霊場
関東三十六不動霊場
第十一番 亀頂山 密乗院 三寶寺
石神井不動尊

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平成廿二年十二月廿六日


          26日 八王子       最高気温  10.9℃   最低気温  -0.5℃ 晴
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亀頂山 密乗院 三寶寺

石神井不動尊

囉多羅(らたら)童子

真言宗 智山派

御詠歌

老い若き

詣る心の
うれしさよ

かかる三寶寺の

縁尊し
御朱印 御影 囉多羅(らたら)童子
お寺の縁起
三宝寺は、応永元年(1394)に鎌倉大楽寺の大徳権大僧都幸尊法印が当地周辺に創建しました。
文明9年(1477)太田道灌により当地へ移転天正19年(1591)には10石を与えられた御朱印寺でした。

「新編武蔵風土記稿」に「三宝寺、新義真言宗。亀頂山密乗院ト号ス。
無本寺ナリ。
古ハ鎌倉大楽寺ノ末ナリシト云。
本尊不動。
傍ニ聖徳太子ノ作ノ正観音ヲ安ス。
又勝軍地蔵ヲ置リ。
是ハ村内愛宕社ノ本地ニシテ世ニ希ナル古仏ナリ。
年ヲ追テ朽損セシカハ慶長11年檀越尾崎出羽守資忠住僧頼融ト謀リ修理ヲ加ベシト云。
其後賊ニアヒテ全躯ハ失ヘリ。
寺伝ヲ閲スルニ。
当寺ハ応永元年権大僧都幸尊下石神井村ニ草創スル所ニシテ。
同キ5年3月9日寂ス。
後屢戦争ノ災ニ罹テ頗衰タリシニ。
文明9年太田道灌豊島氏ヲ滅セシ後ソノ城跡ヘ当寺ヲ移セリト云。
カカル旧刹ナリシカハ。
天文16年元ノ如ク勅願所タルヘキノ免状ヲ賜ヒ。
永禄10年現住尊海ヲ大僧正ニ任セラル。
又北条氏ヨリモ寺田ヲ寄附シ。
制札等ヲ与ヘテ帰依浅カラザリシカハ御当代ニ至リテモ先規ニ任セラレ。
天正19年領10石ノ御朱印ヲ賜ハレリ。
寛永2年正保元年大猷院御放鷹ノ序当寺ヘ御立寄アリ例歳2月15日3月21日ノ二度ニ常楽会ヲ執行ス。
近郷ノ末寺配役シテ是ヲ勤ムト云。」とある。

「三宝寺誌」所収の「三宝寺縁起」に
「即ち西紀1394年、後小松天皇の応永元年の草創である。
鎌倉大楽寺の大徳権大僧都幸尊法印は、仏縁の地を求めて巡錫し来リ、
武蔵豊島郡石神井郷小仲原の地が、石神井川の清流を前にし、三宝寺川の谷を後にする、
霊亀状丘陵の頂点たる景勝を嘉し、此所に真言の道場として一宇の浄舎を建立した。
亀頂の山号及び密乗の院号の由来するところ、実にこれに因るのである。」とある。

当寺には幾多の文書記録が蔵されていたが、境域はしばしば兵火にかかり、
さらに、文久3年(1863)と明治7年(1874)の2回火災に遇ったので、その際多くの什宝記録の類は灰塵に帰した。
しかし、その文書の一部は「新編武蔵風土記稿」に記載されており、
また古文書の写や江戸時代の文書記録などは数多く伝えられ寺誌に記載されている。
寺宝は、木像の紅頗梨色阿弥陀仏(制作年代不詳)や来迎三尊仏画像板碑(文明4年7月15日銘)など。
鐘楼の梵鐘は延宝3年(1675)の銘があり、
「新編武蔵風土記稿」によると、江戸増上寺の大鐘を鋳た時、その余銅をもって造ったと伝えている。
山門は将軍家光(大猷院)が鷹狩で御成りになったことに因んで、御成門と呼ばれ、
現在の門は文政10年(1827)7月26日に成り、当寺第一の古建築で、
昭和28年(1953)修復、その際見つかった棟札に文政当時建造の由が記されている。
門前に寺格を表す「守護使不入」の結界石がある。
長屋門はもと勝海舟邸にあった由緒ある門で、区内旭町兎月園に移されていたものを、
将軍家ゆかりの当寺が幕末の重臣勝海舟を慕い昭和35年移築したものである。
境内には多くの石造物があるが、田島鉄平の碑は明治期の石神井における養蚕を語るものとして注目に値する。
                                                       (「練馬の寺院」より)

 
攻め滅ぼされた豊島一族は豊島区の由来になりましたが、
勝った太田道潅は大田区になったかと思ったら、文字が「太」と「大」で違います。
大田区は、合併した大森区と蒲田区からそれぞれ一文字ずつ採ったそうです。


       
西武新宿線で田無駅から移動します。
10時12分 上井草駅に着きました。   東京でも色鮮やかな紅葉が見られます。
けたたましいサイレンが聞こえてきました。消防自動車が何台も444号線を北に向かって行きます。
螢橋 石神井川に架かる橋です。 今度ははしご車がやってきました。高層住宅の火災でしょうか。
「甘藍(キャベツ)の碑」
東京ふるさと野菜供給事業二十五周年を記念し、
練馬区の特産物キャベツを後世に伝え、
生産者の労をたたえるため建立したもの。

道 場 寺

道場寺は、豊島山といい曹洞宗(禅宗)の寺です。
この寺は、文中元年〔北朝応安五年(1372)〕、
当時の石神井城主豊島影村の養子輝時(北条高時
の孫)が、大覚禅師を招いて建てたもので、その
時、輝時は自分の土地を寺に寄付して、豊島氏代
代の菩提寺としたと伝えられています。
今でも豊島氏の菩提が弔われ、境内には文明九
年(1477)太田道灌に滅ぼされた豊島氏最後の
城主泰経や一族の墓と伝えられる石塔三基があり
ます。
道場寺には、北条氏康印判状が所蔵されていま
す。この古文書は、永禄五年(1562)四月二十
一日、小田原の北条氏康(1515~71)から禅
居庵にあてて発給した虎の朱印状です。内容は、
道場寺分の段銭、懸銭などの税金を免除するもの
で、練馬区内では、現在のところ練馬区に関係す
る唯一の後北条氏の文書です。
境内の三重塔〔昭和四十八年(1973)建築〕内
には、人間国宝であった香取正彦作の金銅薬師如
来像が置かれ、その台座にはスリランカより拝
受の仏舎利が奉安されています。

練馬区指定文化財
   北条氏康印判状

平成三年(一九九一)三月
       練馬区教育委員会




ねりまの名木

道場寺の
クロマツ


クロマツとしては区内有数の大きさで、
周囲からもよく見え目印になっているこ
とから指定されました。

樹の高さ  
25m

幹の太さ(周囲の長さ)  
2.5m
クロマツ 三重塔 扁額「豊島山」 山門


武蔵野観音
霊場開創七十周年
御本尊如意輪観世音
総開帳
自 平成廿二年三月
至   同   十一月
 第三番 
三寶寺


三  宝  寺

三宝寺は、山号を亀頂山といい、不動明王を本尊とする真
言宗智山派の寺です。南北朝時代の応永元年(1394)、権
大僧都幸尊が開山したと伝えられています。
文明九年(1477)石神井城落城の後、現禅定院(東方約
500メートル)付近から現在の地に移ったといわれています。
当寺は、後北条氏や徳川氏からも保護を受け、江戸時代に
は近くに数十の末寺をもち、府内八十八か所巡りの第十六番
札所となっていました。二度の火災で、焼失したものもあり
ますが、優れた仏像や絵画などを、今でもたくさん保存して
います。表参道の「守護使不入」の碑は、守護の徴税使であっ
ても入れないことを示し、この寺の格式を示しています。ま
た「御成門」といわれている山門は、三代将軍家光が狩りを
した時、ここを休息所としたことからこのように呼ばれるよ
うになりました。山門東側の長屋門は、勝海舟邸の屋敷門を
移したものといわれています。
なお、次の練馬区登録文化財が所在しています。

練馬区登録有形文化財

梵  鐘   一口(鐘楼に吊られているもの)
延宝三年(一六七五)銘

弥陀三尊来迎画像板碑 一基 (所蔵)
文明四年(一四七二)銘。彫刻芸術に優れた来迎画像が
描かれている。

平成元年三月

練馬区教育委員会 

  真言宗智山派
    
三 宝 寺
守護使不入 これは、守護の徴税権・警察権が及ばない特権が与えられていたことを示し、往時の寺格の高さを表す。 守護
御成門  寛永二年には、徳川家光公が鷹狩の途中立ち寄り休息した。
そのため「三門」を「御成り門」という。 
家光公は二度ほど三宝寺に立ち寄ったという。
使不入
鐘楼
弘法大師の言葉

行為(おこない)がよくなければ
その報いとして
地獄の鬼どもが
自然に出現して
苦しみを与える
心の持ち方がよければ
金銀でできた楼閣が
天から降りたり
甘い露が与えられる
――三教指帰――

三宝寺
鐘 楼
鐘楼は昭和49年に改築されたようですが、
梵鐘は、江戸時代の延宝3年(1675)に鋳造されたもので、
増上寺の大鐘を鋳た時、その余銅をもって造ったと伝えているそうです。
七難即滅七福即生   福徳無尽   開運出世大黒天
大黒天
開運出世大黒天御詠歌
苦しみを
転じて福となしたもう
大黒天の大きふところ
南無大黒天 南無大黒天

本堂 福徳無尽 密乗三寶
本堂光背の彫刻 飛天  (四季歩のつれづれより)
観音詣りの皆様へ
ご本尊如意輪観世音菩薩は根本大塔の西北、
新築の観音堂にお祀りしましたので、そちらに
ご参詣下さい        当山執事
密乗三寶 御府内霊場八十八ヶ所
関東三十六不動霊場

御本尊 大聖不動明王
石神井不動尊
石神井不動尊(関東三十六不動霊場会より)
御本尊の「大聖不動明王」  (四季歩のつれづれより)
本尊の前に、孔雀に乗った「紅頗梨色(ぐはりしき)阿弥陀仏」 (四季歩のつれづれより)
弘法大師の言葉
菩薩は
偉大なる
佛のおしえによって
四大誓願を発し
一切衆生を救済する
佛はこれを見て
ねんごろに思う
――三教指帰――
根本大塔 四国第二番
本尊 阿弥陀阿如来
極楽寺写
四国第八十八番
本尊薬師如来
大窪寺写
根本大塔 石柱

寶篋印塔
天明元年(一七八一)六月
の造立になるもので、建築当
初は御成門近くにあった。
しかし、大正十二年(一九
二三)九月一日の関東大震災
で倒壊したため、大正十四年
(一九二五)三月、田中半
左衛門、豊田利右衛門その他
有志の寄附と住職の努力によっ
て、現在地に移建した。

根本大塔は、平成8年に開創600年記念事業として建立された木造多宝塔
高さが9mあるという真新しい十一面観世音菩薩の石像「平和観音」
平成19年に落慶した観音堂
御本尊 如意輪観音
如意輪観世音菩薩のご真言

おんはんどましんだまにじんばらうん
補 陀 落 迦
 御本尊観世音菩薩御詠歌

 老い若き
 詣る心の嬉しさよ
 かかる三寶寺の縁尊し

 南無観世音 南無観世音

平成29年7月2日
石神井氷川神社へ茅の輪くく゜りに行った帰りに三宝寺に寄りました
「出火のお詫び」が張り出されていました
6月22日夕刻の火事だそうです
観音像は無事に本堂に運び出されたようです
平成28年9月14日に写した
焼ける前の観音堂です  
観音像が安置されていました
(ウォーキング日記より)
大師堂(奥の院)
大師堂
御本尊弘法大師御詠歌
葦の葉の
そよぐわが身もみ佛に
誘われまいる三寶の寺
南無遍昭尊 南無遍昭尊

第十六番 三寶寺

わすれずも
みちびきたまへ
くわんおんじ
さいほう
せかい
みだのじやうどへ
大師堂 弘法大師御誕生一千二百年
十二日講引導者像   東京 十二日講  為 大日本帝國 陸海軍戦死者 大師御入定
不動明王

弘法大師
第十六番

○堂

大師堂(奥之院)

建物什宝調書控には「経堂」
として載せられているもので、絵図
面によれば、古来ほぼ現在地の近
くにあったと思われる。昔は一切
経等を納めた経蔵であったが、これ
に千体地蔵と弘法大師を安置し
たので、専ら大師堂と呼ばれていた。
 近年までは朱塗りの小堂であっ
たが、昭和四十二年(1967)
に迎えた、弘法大師ご誕生一二
00年を記念して改築された。
 現根本大塔の位置にあったもの
を、平成四年(1992)根本
大塔建立に伴って現在地に移築さ
れた。
大師堂 万両
百日紅 根本大塔
千両 三宝寺 境内案内図
本堂、根本大塔、大師堂
                 ←  観音堂、大黒堂、平和観音           納経所、受付 →
阿字観、写経道場
千両 関東三十六不動霊場
納  経  所

正覚院
正覚院は三寶寺旧六塔頭の
一つである。
昭和五十一年(一九七六)
客殿改築に際し、昭和三十一
年(一九五六)建立の建物を移
築してその名を復活し命名し、
その後平成一九年(二00七)
新築したものである。

正覚院
ねりまの名木
イチョウ
鐘楼
長屋門の左脇に寺標 嘉永5(1852)塔の右側面に「為先祖代々菩提也」とあり、有力な檀家が個人で奉納したものらしい。
11時32分 三宝寺山門より発ちました
旧早稲田通り 25号線
石神井氷川神社は、応永年間(1394~1428)に豊島氏が武蔵一宮氷川神社(旧大官市)の分霊を城内に祀ったのが始まりで、
落城後は石神井郷(谷原・田中・上石神井・下石神井・関の5村)の総鎮守として崇敬された。
境内の享保12年(1727)の手洗水鉢に「神井郷鎮守社」と刻されている。
本殿左右の灯寵は、元禄12年(1699)に豊島氏の子孫が奉納したもの。
  秋の大祭、神楽殿では埼玉県・石山社中が里神楽を、また地元の囃子連が石神井囃子で境内が賑わう。