日本百観音霊場及び四國霊場が結願出来ましたので、お礼参りとして二度目の西國観音霊場を巡ります。
       それと以前からお参りしたいと考えておりました神仏霊場の150の神社仏閣を併せて巡ります。
カウンター
巡礼・お遍路へ


第一期  平成廿三年十一月廿六日 ~ 廿七日

より大きな地図で 神仏霊場 巡拝の旅 を表示
皇大神宮(神宮内宮) ・ 豊受大神宮(神宮外宮)
那智山 青岸渡寺 ・ 熊野那智大社

第二期  平成廿四年 一 月 九 日 ~ 十四日
八坂神社 ・ 華頂山 知恩院 ・ 青蓮院門跡 ・ 平安神宮 ・ 東山 泉涌寺
金光明四天王教王護国寺 秘密伝法院(東寺)
今宮戎神社 ・ 荒陵山 四天王寺 ・住吉大社 ・阿倍野神社
闘鶏神社 ・ 天音山 道成寺 ・ 藤白神社
紀三井山 金剛宝寺 護国院(紀三井寺)
竈山神社 ・ 一乗山 大伝法院 根来寺 ・ 風猛山 粉河寺
槇尾山 施福寺 ・ 天野山 金剛寺
檜尾山 観心寺 ・ 道明寺天満宮 ・ 紫雲山 葛井寺
紫金山 法楽寺諸仏護念院 ・ 大源山 大念佛寺 ・ 生國魂神社

第三期  平成廿四年 四 月廿九日 ~ 五月三日
国軸山 金峯山寺 ・ 吉水神社 ・ 丹生川上神社上社
壺阪山 南法華寺(壺阪寺) ・ 高取の町並み ・ キトラ古墳
於美阿志神社 ・ 檜隈寺跡 ・ 文武天皇陵 ・ 高松塚古墳
天武天皇・持統天皇陵 ・ 亀石 ・ 仏頭山 上宮皇院 菩提寺(橘寺)
石舞台古墳 ・ 東光山 龍蓋寺(岡寺)
長谷寺 開山坊 法起院 ・ 豊山 神楽院 長谷寺 ・ 丹生川上神社
橿原神宮 ・ 神武天皇陵 ・ 談山神社 ・ メスリ古墳
土舞台安倍山 ・  安倍山 文殊院 ・ 安倍寺跡
宀一山(べんいちさん)室生寺

第四期  平成廿四年七 月廿二日 ~ 七月廿四日
惟喬親王御墓 ・ 清香山 寂光院 玉泉寺 ・ 魚山 三千院門跡
後鳥羽天皇大原陵 ・ 順德天皇大原陵
魚山 勝林院 大原寺 ・ 魚山 法泉院 大原寺 ・ 魚山 来迎院 大原寺
鞍馬山 鞍馬寺 ・ 貴船神社 ・ 川床料理 兵衛
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)下鴨神社
賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)上賀茂神社

第五期  平成廿四年八月廿五日 ~ 八月廿七日
高雄山 神護寺 ・ 槇尾山 西明寺 ・ 栂尾山 高山寺
車折神社 ・ 芸能神社 ・ 覚王山 鹿王院 ・ 嵐山
霊亀山 天龍資聖禅寺 ・ 野宮神社 ・ 竹林 ・ 大河内山荘
御髪神社 ・ 小倉山 常寂光寺 ・ 嵯峨天皇皇女有智子内親王墓
楽柿舎 ・ 小倉山 二尊教院 華台寺 ・ 高松山 往生院 祇王寺
五台山 清涼寺 嵯峨釈迦堂
嵯峨山 大覚寺 旧嵯峨御所大覚寺門跡 ・ 御幸町 つばき
松尾大社 ・ 月讀神社 ・ 妙徳山 華厳寺 鈴虫寺
衣笠山 地蔵院 竹の寺 ・ 智福山 法輪寺 ・ 城南宮
白河天皇成菩提院陵 ・ 近衛天皇安楽壽院南陵 ・ 鳥羽天皇安楽壽院陵

第六期  平成廿四年十一 月十八日 ~ 十一月廿日
宀一山(べんいちさん)室生寺 ・ 二上山 當麻寺
 
国軸山 金峯山寺 ・ 信貴山 朝護尊子寺
東大寺 ・ 春日大社 ・ 日輪山 新薬師寺 ・ 勝宝山 西大寺

第七期  平成廿五年一 月廿日 ~ 一月廿三日
岳松山 大聖寺門跡 ・ 萬年山 相国承天禅寺 ・ 御霊神社 ・ 西山 宝鏡寺
家隆山 光明遍照院 石像寺 釘抜地蔵
瑞応山 大報恩寺 千本釈迦堂 ・ 北野天満宮 ・ 平野神社
大虚山 光悦寺 ・ 鷹峰山 寶樹林 源光庵 ・ 寂光山 常照寺
史跡 御土居(おどい) ・ 今宮神社 ・ 龍寶山 大徳寺
六六山 詩仙堂 丈山寺 凹凸窠 ・ 瑞巌山 圓光寺 ・ 曼殊院門跡
赤山禅院 ・ 萬年山 相国承天禅寺 ・ 八起庵
明治天皇伏見桃山御陵 ・ 昭憲皇太后伏見桃山東御陵 ・ 乃木神社
御香宮神社 ・ 寺田屋 ・ 伏見 酒蔵 ・ 伏見稲荷大社
補陀洛山 六波羅蜜寺 ・ 東山 建仁寺

第八期  平成廿五年七月廿三日 ~ 七月廿六日   
蓮華王院本堂(三十三間堂) ・ 南叡山 養源院 ・ 後白河天皇法住寺陵
豊國神社 ・ 方広寺(大仏殿) ・ 南叡山 妙法院門跡
五百佛山 根来寺 智積院 ・ 豊国廟 ・ 鷲峰山 高台寿聖禅寺
瑞龍山 太平興国南禅禅寺 ・ 駒ヶ瀧本堂最勝院 ・ 南禅院
川床料理 兵衛 ・ 貴船神社 
霊瑞山 酬恩庵(一休寺) ・ 普門山 蟹満寺 
観音寺(息長山 普賢教法寺) ・ かつくら
東山 慈照寺(銀閣寺) ・ 善気山 法然院萬無教寺
冷泉天皇櫻本陵 ・ 後一條天皇菩提樹院陵 ・ 陽成天皇神楽岡東陵
鈴聲山 真正極楽寺(真如堂) ・ 吉田神社 斎場所大元宮
吉田神社 ・ 聖護院門跡 ・ 八起庵



神仏霊場会への誘い                                      神仏霊場会公式ホームページより
 人は、この世に生を受けて後、人生の終わりの瞬間を迎えるまでにいったい幾たび手を合わせ、神に願い仏の加護を祈ることでありましょうか。一つの答えとしては、その無限の繰り返しによって人は自ら与えられた時を刻み続けるのだといえます。私たちの心が大いなるものすなわちSomething Greatの助けを求める中で、自ずと表れる“あるがままの姿”こそが祈りの姿なのかもしれません。
 
 ここで、皆さまへのご提案です。
混沌とする世情や不安や悩みを祈りや感謝と共に神様仏様に預けてみませんか。自然や森と共生する神仏霊場を訪れる試みは、必ずや皆さまの心を豊かにし、安寧に導いてくれるはずです。神様は何所にいらっしゃるのか、その姿をけっして現してはくれません。仏様は衆生の何を見つめているのか、言葉に託して教えてはくれません。でもそこかしこに居まし、私たちの全てを観ていらっしゃることは確かです。だからこそ大いなるもの(サムシンググレート)なのです。自然の全てに神様の姿を見出してきた日本の精神文化は、仏様の来日で新たな祈りの活路を拓いてきました。一切衆生の救済という仏様の教えが容易に受け入れられた背景には、生きとし生けるものの中に神様の姿を見てきたからでありましょう。ここに神仏霊場会、神仏和合の源があるともいえます。清きにして明るく、正しきにして直(なお)き神様。広大無辺な慈悲の心で、衆生をお救いなさる仏様。このような神仏の精神を身に受け、新たな力を得て、世のため人のために尽くした果てに、やがてたどり着くのであろう魂の安らぎ。その約束の地への「心の道」こそが神仏霊場巡拝の道に他なりません。
 
 さて皆さん。
“今”“この時”“この瞬間”に芽生えつつある自分の内なる小さな信仰心を大切に、神仏霊場に自らを誘ってみてはいかがでしょうか。それはやがて大きな、大きなSomething Greatとの出会いへとつながることでしょう。見えるばかりが世の中ではありません。言葉に託されないからといってメッセージが無いわけではありません。自分の中に答えを出してくれる大いなるもの(サムシンググレート)との出会いが、神仏霊場巡拝の道には待っています。その一つ一つが重なり合って、安らけき国の姿や社会の安寧、世界の平和がこの地上に訪れんことを……。

                  神仏霊場会会長 加藤隆久 生田神社宮司





西国三十三所・伝説と歴史                            西国三十三所観音霊場公式ホームページより
 「巡礼」とは信仰を確認し、より深めようと霊場に旅することをいいます。これは世界に共通する行動で、キリスト教やヒンドゥー教においても同じです。世界の巡礼は、一つの大きな巡礼地があり、その中の礼拝所に参拝するといったようなものです。その巡礼地に向かう途中の小さな聖地にも参拝します。
 日本の巡礼は、一定の地域のなかにある聖地、数を限定して巡るのが主です。その数とは、「西國霊場」の三十三であるとか、「四國霊場」の八十八であるとかの宗教的な意味をもつ数です。西國観音巡礼の他に、四國八十八遍路、坂東や秩父の観音巡礼など日本各地に様々な巡礼コースが設けられています。西国観音巡礼は、そのような中でも、最も歴史が古く参拝者が多いことで知られています。


観音巡礼の開創伝説と再興
 養老二年(718)のある日、大和長谷寺の徳道上人は、病のため仮死状態になったとき、夢の中で閻魔王に出会います。閻魔王は、「おまえはまだ死ぬ事を許さない。世の中には悩み苦しむ人々がたくさにいる。その人々を救うために三十三箇所の観音霊場をつくり、人々に巡礼をすすめなさい。」といい、起請文と三十三の宝印を授けました。
 上人は仮死状態から蘇り(黄泉がえり)閻魔王から賜った「三十三の宝印」にしたがって三十三の霊場を設けますが、世の中の信用が得られず巡礼は発展しませんでした。上人は巡礼の機が熟するのを待つため、その宝印を摂津の中山寺の石櫃に納めたといわれています。
 約270年後、途絶えていた観音巡礼が花山法皇によって再興されることになりました。先帝円融天皇より帝位を譲られ第65代花山天皇となられますが、在位わずか二年で皇位を退き、19歳の若さで法皇となられました。その後、比叡山で修行し、書寫山の性空上人、河内石川寺の仏眼上人、中山寺の弁光上人等を伴って、那智山において修行し、西國観音霊場を巡拝され観音巡礼を再興されたのです。


徳道上人と花山法皇
 徳道上人は、『長谷寺縁起』などによりますと、徳道上人は斎明天皇2年(656)播磨国揖保郡に生まれ俗性を辛矢田部米麻呂といいました。11歳で父を、19歳で母を失い、その菩提を祈るために21歳の時に大和國初瀬の弘福寺の道明について出家しました。天平5年(732)楠の霊木から三丈三尺六寸の十一面観音を刻み、これを本尊として長谷寺を開創しました。晩年は、長谷寺門前町の法起院に隠棲し、80歳で松の木の上から法起菩薩と化して去ったといわれています。現在、法起院は西國番外札所となっており、徳道上人を本尊とする本堂、廟所とされる十三重石塔、沓脱ぎの石などがあります。

 花山法皇は冷泉天皇の第一皇子として安和元年(968)に生まれ、永観2年(984)17歳で円融天皇より帝位を譲られました。しかし、最愛の弘徽殿女御(こきでん)(藤原伊尹の娘)(これまさ)の死により無情を悟り元慶寺において落飾され、寛和2年(986)19歳の若さで法皇となられました。その後、書寫山の性空上人と結縁し、比叡山や紀州熊野那智山に参籠、修行し、三十三所観音霊場の巡礼を発願しました。性空上人、仏眼上人等とともに観音巡礼を復興されたのです。
 晩年は、摂津国花山院(兵庫県三田市)に住まわれ、寛弘5年(1008)2月8日41歳の生涯を閉じられました。花山院には、御廟と称する宝篋印塔があります。
 観音巡礼の創始者といわれる徳道上人と、それを再興した花山天皇とは、我が国の巡礼の歴史において最重要な人です。現在でも法起院に残る「沓脱ぎ石」には、触れると願い事が叶うという言い伝えがあります。


巡礼の歴史
 形態づけられていない原始的な巡礼は、古神道に基づいて日本にもあったとおもわれますが、本格的な巡礼としては、近畿地方における三十三所観音巡礼が最初です。
 資料としては、嘉禄~天福年間(1225~1234)成立の『寺門高僧記』第四に収録されている圓城寺の僧行尊による「観音霊場三十三所巡礼記」が最初です。
 行尊の巡礼は寛治4年(1090)のころとされおり、第一番長谷寺から始まり第三十三番千手堂(三室戸寺)まででした。その後三井寺の覚忠が巡り、番付は異なりますが、所属寺院は現行と同じでした。この巡礼では第一番が那智山で第三十三番は三室戸寺となっています。今日の巡礼を決定的なものとした点において、歴史的意義が深いと思われます。時代が下がるにつれて、伊勢神宮参拝や熊野三山参拝などと結びついて盛んになっていきました。

 近畿地方に続いて関東地方の坂東三十三所が開創されるに及んで、近畿地方の観音巡礼は『西国』の文字が冠されるようになり、室町時代には秩父巡礼も開創されました。その後、秩父観音霊場の割り込み運動などがおきましたが、打開策として一か所増やし三十四か所とし、西国、坂東と合わせて日本百観音が提唱されたのです。今日までに、六百コース以上が全国各地に開創されましたが、西国三十三所の移し巡礼があり、坂東や秩父の移し巡礼もあります。なかには、北海道三十三観音霊場や粕尾三十三番(栃木県)など、西国三十三箇所の本尊像を各札所寺院に配したケースなども設けられています。


御朱印
 もともとは札所本尊を安置する堂宇の柱などに、木製か金属製の納札を打ち付けたことから札所寺院に参拝することを「打つ」といいます。現在では、紙製の納札を納札箱に納めますが、札所参拝は打つと表現します。その札所を打った証として、朱印帳(納経帳)・納経軸・笈摺・色紙等に受ける朱印の事を御朱印といいます。納経印・宝印ともいいます。
 徳道上人が冥府で閻魔王から授かった三十三所の宝印が起源といわれています。一般に三つの印で構成され、右上に札所番付の札所印、中央に札所本尊の梵字を刻んだ本尊印、左下に札所名の寺院名が押され、本尊名などが墨書きされます。御朱印は札所本尊の分身とされております。