第五期 平成廿四年八月廿五日〜八月廿七日
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京都 楽土の道
栂尾山 高山寺  
 とがのおさん こうざんじ・こうさんじ
栂尾山 高山寺

真言宗系単立

ご本尊 釈迦如来


御朱印



 奈良時代から「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される寺院があり、宝亀5年(774年)、光仁天皇の勅願で建立されたとの伝えもありますが、
当時の実態は明らかではありません。
平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)と称されていました。
これは、神護寺本寺から離れた、隠棲修行の場所であったらしいです。
 高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代の華厳宗の僧、明恵(みょうえ)です。
明恵房高弁(1173−1232)は承安3年(1173年)、紀伊国有田郡は現在の和歌山県有田川町にあたる場所で生まれました。
父は平重国という武士であり、母は紀州の豪族湯浅家の娘でした。
幼時に両親を亡くした明恵は、9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚(1147−1226)のもとで仏門に入りました。

 明恵は、法然の唱えた「専修念仏」の思想を痛烈に批判し、華厳宗の復興に努めました。
「専修念仏」とは、仏法が衰えた「末法」の時代には、人は菩提心(さとり)によって救われることはなく、念仏以外の方法で極楽往生することは
できないという主張であり、これは菩提心や戒律を重視する明恵の思想とは相反するものでありました。

 明恵は、建永元年(1206年)34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられました。
また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜されました。
この時が現・高山寺の創立と見なされています。
「日出先照高山」(日、出でて、まず高き山を照らす)とは、「華厳経」の中の句で、
「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味であり、
そのように光り輝く寺院であれとの意が込められていると思われます。

 高山寺は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっています。  
1966年、仁和寺当局による双ヶ丘売却に抗議し、真言宗御室派から離脱し、真言宗系単立寺院となりました。


12時40分 西明寺から高山寺へむかいました。京都風の民家の玄関に紅いものが下がってました。
       孫民将来之子孫也 八坂神社               警察犬の表札                右に行けば高山寺
白壁の土蔵が一際目を引きました。 川床料理の提灯が目に入ってきました。
ここにもあるのかと思いました。以前に貴船神社近くで川床料理をいただいたものですから
一応お品書きを見ました。清滝川の流れは涼しそうでした。
12時48分 高山寺の表参道に来ました。
とても表参道とは思えませんでしたが進んで行くと、世界文化遺産 高山寺とありました。
山門らしきものは見当たりませんでした。 変わった石畳でした。
国宝の石水院に入るのは後にして、本堂の方へ上がって行きました。
下が岩なのか根が入り込めないで表面に根が張ってました。鞍馬山を思い出しました。 急な石段になってきました。
この石段が意外ときつかったです。
本堂は金堂で重要文化財になってました。
金堂にはご本尊 釈迦如来が祀られてましたが、上手く撮れませんでした。
フラッシュで撮ったのですが、台座しか写りませんでした。 御朱印は石水院とのことでした。
本堂の裏側の方まで回ってみました。
春日明神の鎮守社・宝塔
佛足石
佛足石さんけい道
この石段を上がると 明恵上人 御廟 があります。
御廟の下に開山堂があります。
聖観世音菩薩
京都のお寺さんの庭はどこも苔が生えているんですね。
開山堂 明恵上人
不許飲酒
       遺香庵庭園                   遺香庵入口        佛足石参道  参道の参の文字が面白いですね。
13時08分 石水院に入りました。
門を入って左に折れると
玄関の手前に、石水院の説明書きがありました。
玄関を上がり右に折れ、池の上の板を渡ると、よく写真で見る光景に出会います。
廂の間にいらっしゃる善財童子
欄間に富岡鉄斎筆「石水院」の横額がかかっています。
富岡鉄斎は、明治期の住職土宜法龍と親交があり、最晩年を高山寺に遊んだとのことです。
落板敷の中央に、小さな善財童子(ぜんざいどうじ)像が置かれています。
華厳経にその求法の旅が語られる善財童子を明恵上人は敬愛し、
住房には善財五十五善知識の絵を掛け、善財童子の木像を置いたそうです。
吊り上げの蔀戸(しとみど)、菱格子戸、本蟇股(かえるまた)によって、内外の境界はあいまいにされ、
深い軒が生む翳りの先に光があふれています。
庭を見ると遠くに三尾の山々が見えます。 秋の紅葉の頃は素晴らしいでしょうね。是非来たいものです。
高山寺は古く「神護寺別院」「神護寺十无盡院」などと呼ばれ、栂尾の地にあった神護寺の別院でありました。
建永元年(1206)11月、後鳥羽院の院宣により、華厳興隆の勝地として明恵が栂尾の地を賜ったのが高山寺の起りです。
その際に下賜された後鳥羽院宸翰の勅額といわれています。
背面に陰刻で「建永元年」「藤原長房」(後鳥羽院の近臣、後の慈心房覚真)とあり、長房が院と明恵との仲立ちをつとめたそうです。
「日出先照高山」という表現は華厳経の比喩に由来し、字句は華厳経の注釈書(明恵が重視した『華厳経探玄記』など)に見えます。
廂の間の隣の部屋
西面には長く高山寺の中心的子院であった十無盡院(じゅうむじんいん)の額が見られます。
鳥獣戯画ですが、本物ではありません。
ムクゲが可愛い花を咲かせていました。  白い雲に青い空、本当に暑い日です。
板は直に雨風に晒されて大丈夫なのか心配になりました。
蔀戸の半分が上がっていますが、下半分はどのようになっているのか気になりました。
鳥獣戯画
鳥獣戯画
鳥獣戯画
鳥獣戯画
鳥獣戯画
ムクゲ
      明恵上人樹上座禅像                    蔀戸(格子)       蔀戸の下の部分が立てかけられてました。
上半分は長押から金属で吊り下げられてました。下半分はここに当てはめるようです。
石水院を一回りして元の廂の間に戻ってきました。
玄関でお礼を言って山門から出ました。
山門の前にある日本最古之茶園の石柱が気になりましたの上がってみました。
ここが日本最古なんですね。宇治や黄檗宗の萬福寺ではないんですね。
柵の中にお茶の木がたくさん植えられてました。
佛足石参道の参が、三角形が三つ並んでいる遊び心が面白いと思いました。
高山寺 全山
石垣の間を通って出口に向かいました。
暑い日射しが遮られているのでいくらか歩きやすかったです。
佛足石参道の石標は普通の文字でした。
162号線上がり高山寺裏参道に向かいました。
13時55分 栂ノ尾バス停の時刻表で次のバスを確かめました。14時43分のバスに乗ることにしてお店に入りました。
とが乃茶屋のお店に入ろうとしたのですが、川の方へ下りて行きました。
座った席からは川がすぐ下に見えました。美味しそうなお蕎麦が出てきました。
そろそろバスの時刻なのでお店を後にしました。
「風流茶亭 とが乃茶屋」前のバス停から向こうの駐車場にバスが止まっているのが見えました。
ところが、このバスではなく向こうから道路を走ってきたバスに乗りました。
14時46分 バスに乗っているお客さんは少なかったです。
京都駅行きのバスで途中のバス停で降りました。  暑い中歩いて15時50分今晩泊まるホテルに着きました。