深川神明宮 寿老人

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東京北の丸公園 最高気温 12.2℃ 最低気温 0.6℃ 曇り時々晴 夜一時雨霙

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雲一つない晴天です。      7時12分の気温は5.1℃であまり寒くありません。 蝋梅の花が咲くのはまだのようです。
近所の教会は改築中です。 7時26分朝陽が射してきました。 7時34分バスがやってきました。
大宮駅前は閑散としています。 駅前から東の方を見ますと
大きなビルが建築中です。
何になるのでしょうか。
改札口の上には箱根駅伝で活躍した
大学の名前があります。
京浜東北線の電車で秋葉原駅に向かいます。
秋葉原駅で総武線に乗り換え、両国駅で降りました。
両国国技館 ビルの間に東京スカイツリーが見えます。 駅前に横綱横丁があります。
だいぶ雲が出て来ました。
両国八百八町


花の舞


江戸東京博物館前店


京葉道路 14


清澄通り 463

清澄通りを南に進みます。
向かいのりそな銀行には
遺言相談はりそなへ
ポスターが三枚も貼ってあります。
 

立て札があります。
 
鬼平情景
  軍鶏なべ屋「五鉄」


 小説「鬼平犯科帳」に登場する、鬼平の行きつけの店、本所二ツ目の軍鶏なべ屋「五鉄」の場所は、「二つ目橋の角地で南側は堅川」とあるように、この辺りだと推定されます。
 鬼平とその配下の密偵たちは、ここに集まって、軍鶏なべをつついていました。
 その名物である軍鶏の臓物なべは「新鮮な臓物を、初夏のころから出まわる新牛蒡のササガキといっしょに、出汁で煮ながら食べる。熱いのを、ふうふういいながら汗をぬぐいぬぐい食べるのは、夏の快味であった」と「鬼平犯科帳」には書かれています。
 


本所立川 ―富嶽三十六景― 






富士山を描いた「富嶽三十六景」シリーズの一枚です。北斎が70歳頃の版行です。
江戸時代、竪川の北側(旧相生町一丁目〜二丁目付近)には、その水運を活かした材木問屋が密集していました。
北斎はそれら問屋と職人たち、木材の間から覗く富士山を描きました。
積み重ねられた材木の間から見える富士は、遠近法を得意とする北斎らしい構図です。
右下の材木置き場には「西村置場」、その左右の材木には「馬喰丁弐丁目」「永寿堂仕入」などの墨書があり、版元名とその場所、本シリーズ(「富嶽三十六景」)の宣伝がさりげなく入っています。




(葛飾北斎の浮世絵でみる「本所」「深川」より)


 江戸の町
        二之橋

 万治二年(1659)、竪川が開削されると五つの橋が架けられ、隅田川に近いほうから一之橋から五之橋と名付けられました。その二ツ目の橋で、長さ十間(十八b)幅三間(五・四b)ほどありました。
 池波正太郎の「鬼平犯科帳」では、二之橋は「二ツ目橋」という名で数多く登場します。鬼平が事件を解決するなかで、弥勒寺門前のお熊婆のいる茶店「笹や」へ行くにも、大川から舟で乗付けて軍鶏なべ屋「五鉄」に立寄るにも、この橋は必ず登場し、正に欠かせない場所となっています。
 現在の橋は平成十年(1998)に架橋されたものです。


たてかわ

竪川

にのはし
  竪川の上は首都高速7号線が走っています。           二之橋 竪川沿いの歩道です。
地下鉄 森下駅 → 清澄通りから隅田川の方に進む道路です。
千歳三丁目 ステーキ定食 サラダ・ライス・味噌汁付 三代目 まる天

川本ビル
耐震補強工事完了
 
 鬼平情景
   弥勒寺門前 茶店 笹や


 弥勒寺前にあり、平蔵が「本所の銕」と呼ばれ放蕩無頼の日々をおくっていた頃をよく知るお熊婆さんの店です。今は七十を超えていますが、若い頃は平蔵に毎日のように酒を飲ませ、泊めてやったきっぷのよい世話好きですが、一度は平蔵の寝床にもぐりこんで逃げ出された苦い思いをしています。
 「お熊と茂平」では役宅を訪ねて来たお熊が平蔵にその時の話を持ち出されて恥じる場面が出てきます。意外に純な面があります。塩辛声で、口の利きようは男勝り、容姿は痩せて骨が凧のように張り出し、一度会ったら忘れられないものです。
 平蔵が盗賊改方の長官になってからはその出先のような役を担い、連絡や見張りの場所はもちろん、隠れ家にもなり、作品の多くに登場します。


森下一丁目 14
清澄通り 新大島通り 交差点を渡ります。

清澄通り

森下駅

新宿まで13分
(都営新宿線
急行

上野御徒町まで7分
(都営大江戸線)

橙色の幟が出て来ました。 深 川 七 福 神
清澄通りから入って右に進むと深川神明宮です。

深川発祥の地 深川神明宮
          
          
深川神明宮
                     (寿老人)
由来
 この辺一帯は、慶長年間(1596〜1614)に摂津国(大阪府)の深川八郎右衛門ほか6人が新田を開拓し、八郎右衛門の姓をとり深川村と名づけられた、深川村発祥の地です。八郎右衛門は持地内の小祠に神明を勧請したと伝えられ、これが深川神明宮です。
 のち、現在の新大橋・常盤・高橋・森下・猿江・住吉あたりの開拓が進み、八郎右衛門は代々名主をつとめました。
深川七福神のひとつ(寿老人)として親しまれています。


  日本画家 
伊東深水誕生の地
               (森下一・常盤二)
 伊東深水は、明治三一年(1898)二月四日、深川西森下町の深川神明宮門前で生まれました。本名は一(はじめ)、深川尋常高等小学校に入学後、二年生のときに父が失職し、深川の地を離れました。しかし、深川との縁は深く、明治四一年には深川東大工町の東京印刷株式会社(白河四−九)に勤務。ここで画才が認められ、同四四年に日本画家の鏑木清方に入門しました。深水の雅号は、深川の水にちなむもので、清方がつけたものです。

 入門の翌年、巽画会展出品作「のどか」が初入選。大正三年に「桟敷の女」、翌年には「十六の女」それぞれ院展、文展で入選し、その後も高い評価をうけました。また、大正中ごろには、新版画運動に共鳴し、木版画「対鏡」を制作、雑誌や新聞小説の挿絵、口絵なども手がけました。
 深水は、江戸の浮世絵の伝統を受け継ぎ、女性の美しさを創出する日本画家として、日本の近代美術史に大きな功績を残しました。その功績から、昭和三三年五月には日本芸術院会員になり、同四七年五月八日に七四歳で没しました。
 
平成十五年十月
          
江東区教育委員会


深川発祥の地 深川神明宮
深川七福神

寿 老 人

深川神明宮


深川七福神めぐり
令和二年より
一月一日〜七日まで
午前九時〜午後五時

色紙・笹・鈴の授与はこの期間内と
しますのでご了承ください。

神輿庫 常盤壹丁目神輿庫 元宮 森下壹丁目神輿庫
神輿庫 手水舎
和合稲荷神社 深川七福神
寿 老 人
深川神明宮
寿老神社
寿老人神社 寿老人
寿老人 深川神明宮儀式殿 天祖神社
神明宮本殿 干支の紅白子
深川七福神色紙を入れる袋 御朱印 沿道名店ガイドブック
道順のご案内 深川七福神 沿道名店ガイドブック

深川七福神 御朱印帳  神 輿
 神 輿 手水
神 明 和 合 稲 荷 大 明 神

金毘羅大神 大物主神
  水に関する守護なり
道祖大神 猿田彦神
  道路を司り旅行安全の守護なり
北野大神 菅原道真公命
  御神徳は学業成就なり

 平成十九年五月三日

 
 深川神明宮社務所

浅間大神 木花開耶姫
  霊峰富士山に鎮まる神なり

厳島大神
 市杵島姫神
  芸道富有を司る弁天さまなり
疱瘡大神 建速須佐之男神
  疱瘡を初め病流行の守護なり
鹿嶋大神 武甕槌神
  国土平定の時尚武の守護なり
大国大神 大国主大神
  御神徳は健康守護なり
御嶽大神 少名毘古那神
  禁厭祈祷 医薬の道をも講せらる

 
深川神明宮末社和合稲荷神社
  御由緒


 古くは御神域内の各所に各々にお祭りしていた左の十一柱の神々を昭和に入って末社として合祀し、和合稲荷神社となった


御祭神と御神徳

和合大神 
伊邪那岐 伊邪那美の二神
夫婦和合の妙徳により万物修理固成せり
稲荷大神 宇迦御魂大神
  御神徳は五穀豊穣 商売繁盛なり

青空が増えてきました。 神明幼稚園 大分市 内田伊尹
常盤壹丁目神輿庫 新大橋壹丁目神輿庫 千歳参丁目神輿庫

高森町会神輿庫

元宮 森下壹丁目神輿庫

深川七福神めぐり
令和二年より
一月一日〜七日まで
午前九時〜午後五時

色紙・笹・鈴の授与はこの期間内としますのでご了承ください。



深川七福神

寿 老 人


深川神明宮
                            
                       
由 来 記

         今カラ凡ソ四百余年ノ昔深川ノ地ハ、葦ノ茂ル三角州デ住ム人モ
        無カッタ ソノ頃深川八郎右衛門ト云ウ人ガ一族ヲ引連レコノ一帯
        ヲ開拓シタ 八郎右衛門ハ敬神ノ念篤ク、崇敬スル伊勢皇大神宮ノ
        御分霊ヲ奉齋シテ、開拓民ノ福祉ト当地ノ発展ヲ祈願シタノガ深川
        神明宮ノ初メデアル ヤカテ徳川家康公ガ江戸ニ入府、慶長元年当
        地ヲ巡視シ八郎右衛門ヲ召シテ地名ヲ尋ネタ 未ダ住ム人モ少ナク
        地名モ無キ由答エルト、家康公ハ八郎右衛門ノ姓「深川」ヲ以テ地
        名トセヨト命ジタ 深川ノ地名ノ起コリハ、神明宮ノ鎮座スル実ニ
        此ノ地ナノデアル
         爾来深川ノ地ハ江戸ノ繁栄ト共ニ発展シ、当宮モ「深川総鎮守神
        明宮」ト称エラレ、多クノ崇敬ヲ集メルコトトナッタ ソノ間ニハ
        震災戦火ノ大キナ災禍ガアッタガ氏子万民ノ赤誠ヲ以テ昭和四十
        三年ニ御社殿御造営モ成リ、衆庶ノ崇敬益々旺ンデアル
         今般、郷土和楽万民繁栄ヲ祈念シテ御鎮座四百年祭ヲ齋行スルニ
        当タリ、今日ノ繁栄ノ礎ヲ築イタ郷土ノ先人ニ感謝シ、当宮ノ由緒
        ヲ茲ニ記ス

            平成九年八月吉日
                   深川神明宮宮司   内 野 成 浩  謹 撰
                   神  宮  禰  宜   藤 井 昭 彦  謹 書