深川芭蕉庵


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すみだがわ 珍しいですね。 空き地が広がっています。 近々何か建物が建つんでしょうね。
隅田川に沿って歩いて行きますと、階段があります。
門があり、立て札があります。  観光高札
赤穂浪士ゆかりの道 
綺麗な山茶花の花が咲いています。 階段を上がります。  
これが意外ときつい階段です。 上がりきった先に像があります。

芭蕉翁之像

この像は、芭蕉の古参門人で経済的な庇護者であり、
深川芭蕉庵の提供者ともいわれる杉山杉風(1647〜1732)が描き、
京都の画家 吉田偃武が忠実に模写した芭蕉翁之像畫により制作したものです。

(原画 岐阜県高山市 加藤 功氏 蔵)

      平成七年四月 

隅田川が一望できます。
冨嶽三十六景 深川万年橋下
深川芭蕉庵  俳人百家撰 
芭蕉翁略伝  芭蕉翁絵詞伝 ↑ 深川八貧図 ↑
俳諧悟影法師 ↑ 埋木の花 ↑ 芭蕉文集 ↑
芭蕉庵再興集 ↑ 万年橋
隅田川 万年橋 階段を降ります。
山茶花 ↑      川上とこの川下や月の友      
深川芭蕉庵  小名木川五葉松と芭蕉の句   『江戸名所図会』小名木川五本松 
深川芭蕉庵   新大橋萬年橋 絵本江戸土産・二編  萬年橋 柾木稲荷 絵本江戸土産・八編
正一位 正木稲荷神社 正木稲荷由来 
芭蕉稲荷神社  芭蕉庵史蹟   史蹟 芭蕉庵跡
芭蕉記念館
比ヨリ 北百五十米
 
   
   深川芭蕉庵旧地の由来 

 俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。
 ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。
 たまたま大正六年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。
 昭和二十年戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和三十五年復旧に尽くした。
 しかし、当所が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。
  昭和五十六年三月吉日
            

          芭蕉遺蹟保存会



さまざまなこと思い出す桜かな 芭蕉

 この句は、松尾芭蕉によって元禄元年 (1688)、奥の細道の旅に出る一年前、故郷である伊賀の国へ帰省した際に詠まれています。
 時に芭蕉、四五歳。
その昔、芭蕉が仕えていた籐堂良忠が主催した花見の宴の時の芭蕉(宗房)の将来は、花見の花のように満開に花開いていたことでしょう。
しかしその花見の宴の後、主君は二十五歳の若さで急逝します。
芭蕉は主君の野辺送りの後、二十三歳で侍の道を捨てて俳諧の道に生きる決心をします。
そしてそれから二十二年後、父の三十三回忌の追善法要 もあって、丁度桜の咲く頃に故郷に戻ります。
芭蕉の実家から籐堂家の屋敷までは一町(109m)ほどの距離です。
そ して芭蕉は図らずも籐堂家の世継、良長か ら、屋敷で開く花見の宴に招かれます。
江 戸において俳諧で名を上げたとは言っても脱藩の罪を負った芭蕉にとって、二度と訪れることはないと思っていた旧主の屋敷で 開かれる花見の宴への招待です。
芭蕉には 夢のような出来事であったはずです。
この句は、ああも詠もう、こうも詠もうと思った末に生まれた、極めて平易で私心のない、 透明な句のように思います。
芭蕉が詠んだ 「さまざま」にはそんな万感が込められて いるのでしょう。
花の句で最も共鳴できる句です。   (俳句同人誌あしたより)

眷属の狐さん
  
万年橋通りに出ます。 旧芭蕉庵跡 この先20m →