今年は午歳なので秩父観音霊場が御開帳(3月1日〜11月18日)となりました。 そこで3月下旬から三度目の順打ちで歩く巡礼に出かけました。 6年ぶりでしたので色々な処が変わっていることに驚きました。 観音堂や本堂が新しくなったり、工事が行われていた道路が完成したり、 また、桑畑だった処や民家の屋根に太陽電池があちこちに設置されていました。 逆に茶店が無くなった処が多くなり、時代は変わっていくものですね。 お陰様で11月16日水潜寺をお詣りし結願することができました。 ありがとうございました。 |
秩父札所について 秩父盆地は、新生代第三紀(3〜6千万年前)に自然の大変動(造山運動)が起こり、 海底から陸地へと変じて生まれました。秩父の歴史は崇神天皇の頃、知々夫産命が着任し、國の総鎮守として知々夫神社が祀られたことに始まります。後に、知々夫は秩父に改められ、武蔵国の一部となりました。 慶雲五年(708)には銅が発見され、日本最初の銅貨・和同開珎がつくり出されました。 そして、山岳宗教が盛んになると、山伏たちによって周囲の山々は開かれ、その後に禅文化が浸透し、 禅寺が建てられ、この影響で勇壮な秩父武士が排出しました。 戦国時代には、戦乱に巻き込まれて多くの遺産を失いましたが、秩父に観音の札所が設立されたのは この時代からさほど遡らない頃といえるようです。 西国の札所は、養老二年(718)大和長谷寺の徳道上人によって創められました。 永延二年(988)花山法皇によって再興されたと伝えられており、板東の札所は、鎌倉初中期の天福以前に 設けられたといわれています。 秩父の札所はその後に成立したわけですが、伝説では、文暦元年(1234)性空上人をはじめとする十三人の聖者(妙見大菩薩・蔵王権現・善光寺如来・熊野権現・閻魔大王・具生神・花山法皇・白河法皇・徳道上人・医王上人・良忠上人・通観法印)が巡拝し、札所を設けたと言われています。 しかし、史料として最も古いものは三十二番法性寺に残る札所番付によると長享二年(1488)以前に札所は成立していたわけですが、あまり時代をたどらず一般には室町中期の頃と推定されています。 当時は、観音経で説く、観世音の三十三化身に基づいて、西国、板東と同様、三十三カ所でしたが、 後に一カ所(二番真福寺)を付け加えて三十四カ所となり、百観音札所が成立しました。 三十番法雲寺にある天文五年(1536)の納札には 百観音巡礼と刻銘されていることから、その頃西国、 坂東、秩父を合わせて巡拝することが行われていたことを知ることができます。 巡拝の順序も、長享二年の番付に比べると、江戸を中心とした交通の発達に伴って大幅に変更され、 一番定林寺が十七番になり、二十四番妙音寺が一番になっていました。 江戸からは川越、熊谷、吾野を経るコースがありますが、中山道の熊谷から秩父へ折れる角には 「秩父みち」の石碑が今も建っています。 ご開帳は午の歳に行われていましたが、江戸からの巡礼が多くなりますと、 その要望もあって江戸へ出開帳しました。 通例ならば三十三年目、あるいは六十一年目に当たる甲子(きのえね)の年に行われますが、 江戸後期になると度々行われました。 近年の総開帳は午歳で十二年毎に行われています。馬が観世音の眷属であるため、或いは霊場開創が 文暦元年甲午歳と伝えられていることから、午歳に開帳するといいます。 また、観世音は南方補陀洛におられ、午は南方に当たることにもよるといいます。 古くからの巡礼は、笈摺(おいずる)を背にして、菅笠、脚絆、甲掛をつけ、草鞋をはいた姿で、一カ所ごとに納札を打ち付けて巡拝しました。霊地のことを「札所」というのも、また、巡拝のすることを「打つ」というのも、それによるのです。そして、巡礼自身が心経や観音経を写経して納め、その受納のしるしに印を押してもらいました。それが納経帳です。 三十四カ所を一巡すれば約九十q、歩いて四泊五日の道程ですが、巡拝することによって心身は鍛えられ、山紫水明に恵まれた秩父地方の様々な風物や、温情豊かな人々に接し得て、明日の生活に明るい希望が芽生えてきます。それが実感として受け取れるのも、巡拝するものがいつも「同行二人」と、心に観世音を念じつつ歩いているからといえましょう。「旅」のもつ不思議な魅力も、そこにあるような気がします。 「秩父観音巡礼」 平幡良雄著 発行 満願寺教化部より |